愛情飢餓に苛まれ、他人の恐怖に怯え、心の飢えと恐怖心から、つい他人に媚びてしまう自分を、私は心底から嫌悪した。私という人間は、あまりにも惨めだった。このまま生きてもロクな事にならず、この先もっと辛い目に遭うだけだと思った。
実際、私は幼い頃から全然成長していなかった。鬼のような貌(かお)をした父親に怒鳴られ、睨みつけられながら釣りや水泳やスケートなどのスキルを叩き込まれていた頃から、ただの一歩も前に進んでいなかった。
私は両親に飼い慣らされ、牙を折られ、爪を剥がされ、舌を抜かれ、手足を砕かれ、羽を毟られ、あらゆる可能性を叩き潰されていた事を理解してしまった。親のみならず、誰かに屈服する、もしくは飼い慣らされるという事は、そういう事なのだ。
だが、そうと解った時には、全てが手遅れだった。自分では散々我慢を重ね、散々努力をしてきたと思っていたが、それらは全て無駄だった。完全に努力の方向性が間違っていたと理解した時、私は自分自身と、その未来に絶望した。
愛情欲しさに自分を売った人間の末路とは、何と惨めなものか。その後も藁をも掴む気持ちで加藤先生の著作を読んだり、それ以外の「心の処方箋」を読み漁ったが、心に響く本は一つも無かった。
私は自分の人生の立て直し方や、苦しみを根治させる方法が知りたかったのだが、本にも書いてある事は、殆ど気休め同然の内容でしかないように思えた。
救いを求めて色々な分野の本を読んでいくうちに、政治や歴史にも興味を持つようになっていった。その学びによって、理想と現実の落差を実感する事になり、次第に「何故この世界は、こうも地獄なのだろう?」と考えるようになった。
私の苦の発端は、両親だ。この人らが私をマトモに育ててくれていたら、こんな酷い人生にはなっていない。だが、親や環境に恵まれた人達であっても、不良やヤクザとの関わり方を間違えれば、簡単に地獄に突き落とされてしまうだろう。
人間社会に安全な場所は無いと思ったし、自分もまた完全無欠で最強の聖人君子には程遠い。私は悪党とは一線を画す存在になりたかったのに、どんなに勉強しようが、努力をしようが、私は変われなかった。
変わるという意味では、悪党の変わりっぷりは見逃せない。彼らは酷い環境を生き抜く為に、悪い方に変わったのだ。私の父親にしても、酒を飲んで暴れる祖父に殺されかけた事があるらしい。
その祖父も、学生時代に寺の跡継ぎになり、それまで真面目な僧侶として生きてきたのに、否応なしに戦争に駆り出されてしまった。悪い方に変わった人間は、みんな辛い運命に翻弄された過去を持っていると考えても間違いではないと思う。
だが、私はそれを敗北と定義した。彼らは理不尽な運命と、自分自身に負けたのだ。確かに、私は良い方に変われてはいないが、まだ悪い方にも変わっていない。今は孤立無援の苦しい戦いをしている最中なのだ。
結局、自分の問題は自分で解決するしかないし、その努力と苦闘は義務と言っても過言ではない。何故なら、どれほど理不尽な運命を背負っていても、その業(ごう)は決して他人に渡してはならないものだからだ。
不良やヤクザ、祖父や両親は、その義務を果たそうとしなかった。その結果、決して渡してはならないものを、私に渡してしまった。それについては、本人が認めようが認めまいが、全面的に奴らが悪いと断じても構わない。
だが、無責任な敗北者共を責め立てても何にもならないし、過去も決して変わらない。他人の所為にするのは簡単だし、努力しなくて済むから楽なのだが、その楽さには先が無い。
親子三代の業と、不良やヤクザが勝手に押し付けてきた業は、不覚にもそれを引き受けてしまった私に終わらせる義務がある。キチンと終わらせなければ、私の一生がメチャクチャになるだけだ。文句を言った所で仕方が無いのである。
全てを終わらせるには、全ての経験を糧にして、私という人間を完成させるしかない。しかし、完成した人間とはどういうもので、どうすれば完成に至るのかは、いくら考えても解らなかった。
何をやっても、どう考えても、自己嫌悪は深まる一方だったし、自己無価値感や、無力感は、偽の罪悪感を生じさせた。罪に汚れ腐った私には、いっちょ前に食事をしたり、環境を汚してまで生きる資格は無いとまで思うようになった。
私が消費する資源や食べ物は、他の貧しい地域に生きる子供達に分け与えるべきものと考えたし、自分はゴミを漁って暮らすのが相応しい卑しい存在だとすら思った。しかし、ゴミ漁りをしてまで生き永らえる必要が、何処にあると言うのだろうか?
心の支えなど、どこにも無い。いつも罪悪感に押し潰されそうだったし、自分なんか早く死んだ方が世の中の為だと思っていた。万年、精神疲労の状態で、休日に何時間寝ても目のクマが取れなかった。
何度か絶叫しそうになったり、ひん曲がった奇妙な笑みが浮かんできたりもしたが、それでも愛想笑いを振り撒きながら、仕事だけはやっていた。何故なら、仕事を滞らせて迷惑をかけたり、しょぼくれて不愉快な思いをさせる事は出来ないからだ。
他人に嫌われるという事は、当時の私にとって「死の宣告」そのものだった。私は自分の価値を、完全に他人に預けてしまっていた。委(ゆだ)ねきってしまっていた。依存してしまっていた。自分の人生を、自分で支えられていなかった。
私には価値が無い、生きていくだけの価値が無いと思った。当時の私にとって、精神的自立は夢のまた夢だった。でも、こんな自分でも、せめて正しい生き方を知れば、それなりに価値が生じ、それに頼り縋って生きていけると思った。
私にとって正しい事を知るというのは、誇張抜きで死活問題だった。だが、考えれば考えるほど、何が正しいのかが分からなくなってゆく・・・。
物事は多面的に見る必要があるものだ。ある人には黒と見えても、別の角度から見ると白に見える事もある。例えば、私の父親や、社内の悪党にしても、一応は話の筋を通そうとしていた。
だが、彼らは主観だけで生きていて、自分は良くても他人には迷惑という視点は無かった。ただ単に、自分の勝手な言い分を、暴力によってゴリ押ししていただけだった。いくら話の筋が通っていても、これはダメだ。
人間社会は相互性によって成り立つもので、誰かが暴力によって無理を通せば道理が引っ込む。暴力の先にあるものは秩序の崩壊であり、悪が笑う世の中だ。しかし、如何なる強者であっても、闇討ちだけはどうしようもない。
己が意を通すと言えばカッコイイが、それは社会と法に守ってもらうのが前提になる。無法地帯だと闇討ちを防げないから、ワガママを通すのも命懸けだ。その覚悟があるなら話は別だが、少なくとも私が見てきた限りでは、覚悟のある悪党は居なかった。
自分に負けた人間には、他責思考と、自己正当化の言い分しか残らない。盗人にも三分の理と言うが、それが「話の筋を通す」という事なのだ。要するに、ワガママな人間は何とでも言うし、相手にするだけの価値も無いのである。
これが私が出した結論であり、最終意見だった。もちろん単なる精神的勝利ではあるが、少なくともこの答えによって、私の迷いは完全に消えた。もはや世に巣食う悪党の戯言に、耳を貸す理由は一つも無かった。
この考え方は、私自身を含む全人類を悪と断じるものでもある。人間の本質は悪で間違いないが、悪の自覚が無ければ、善に目覚める事も無い。キリスト教の原罪と懺悔、浄土真宗の悪人正機などの思想は、まさにこの事を指すのだろう。
欲望に正直なだけのケダモノより、反省と後悔で苦悩しつつ前を向く人の方が、よほど人間らしく生きている。私は聖人君子にはなれそうもないが、苦悩と正しく向き合う人生なら歩めると思った。
自らの悪性を認めるなら、他人の悪性も認めざるを得ない。だが、そこで妥協や言い訳をせず、悔い改めようとする事が、結果的に自己肯定に繋がった。意外にも、こんな形の「戦いの人生」が、私には相応しかったのである。