人生に死の予定を組み込む
前回の続きみたいな話です。
弁証法と、逆説弁証法は、日常で頻繁に使用する哲学的思考方法ですが、人間の思考は相対するものの二元論で出来ているので、ある程度まで思考が深まると必ず矛盾に行き着きます。
例えば、光と闇のどちらが正しいかとか、真の善(悪)とは何かという問題を突き詰めていくと、次第にどちらが正しいのか分からなくなり、最後は論理的に破綻してしまいます。逆を言うと、矛盾に至らない思考は一方的であり、道半ばだという事になります。
人権、差別、戦争などの問題にしても、自分が絶対に正しいと思い込んでいるヤベェ人達が居ますよね。あの人達は自惚れ屋で他人を見下しているから、矛盾と向き合ったり、論理の破綻を認められなくなっているんです。
では、破綻していない正常な思考とはどのようなものかと言いますと、これはとっくの昔に仏教が「中道」という答えを出しています。因みに、儒教の「中庸」はただのバランス取りなので、末後の一句(真理)とは言えません。
中道を実践するのは割と簡単で、どちらが正しいかを決めつけなければ良いだけです。正しさの根拠を出そうと思えば、いくらでも出せるものですが、その先には矛盾と終わらない論争しかありません。
討論で相手を論破しても、真理に到達する事は無いと分かれば、誰もそんな無駄な事はしなくなります。本来、こういう思考を持つ人でなければ、議論の席に着く資格なんか無いんですよ。
ただ、人間は常に正しさを求める生き物なので、自分が正しいという確信を持てないと、不安に駆られてしまいます。そして不安感が強ければ強いほど、単に意見を保留して熟慮するというだけの事が難しくなるんです。
不安に対抗する手段はいくつかありますが、決め手になるのは不幸を受け入れる覚悟と死ぬ覚悟の二つです。覚悟が決まれば肚(はら)も決まって精神的に安定しますし、個人を超えた俯瞰の視点を手に入れる事も出来ます。
臨死体験をすると人生観が変わると言いますが、実際、死の実感ほど人の頭を冷やすものはありません。仏教や修験道の僧侶は、死を間近に感じる為に命懸けの荒行をしますが、聞いた話ではそれなりに効果があるそうです。
人生に死の予定を組み込むというのは大切な考え方で、私自身も早めの終活を済ませていますし、坐禅という名の死ぬ練習もしています。また、固定観念を破壊する為に公案に参じる事もあるので、実は割とガチな禅マニアという立場だったりします。
死ぬのが怖くないと言えば噓になりますが、10代後半から希死念慮を抱えてギリギリの状態で生きてきた所為か、死を見据える事には抵抗がありません。まあ、酷い人生であっても、それなりに得られるものはあるという事です。
でも、死を見据えると、相対的に生が輝くものなんですよ。今となっては発達障碍&毒親育ちという悪条件ながら、悪に堕す事もなく、半世紀以上も生き抜いた自分を誇らしく思っています。
尤も、死の恐怖で精神を病む人も居るので、生死のベクトルにも向き不向きがあるとは思います。飽くまでも「私には向いていた」というだけで、こういう生き方、死に方が正しいなどというつもりはありません。
人が歩む道は人の数だけあって良いし、大切なのは「その道は心ある道か?」と自らに問い続ける事だと思っています。他人からどう見えようと、心ある道を歩んでいると思えるならそれで良いし、違うと思ったら正せば良いと思うんです。
生きる事とはトライ&エラーを楽しむ事であり、何かを絶対視して試行錯誤を止めるのは、死ぬのと同じなんじゃないかなと思います。その末に、自分が何処に行き着くかはお楽しみです。私だって、こんな人生になるとは思ってなかったし(笑)