自らを尊い存在と思えないなら

毒親が我が子を愛せないのは、心の底で自分自身を嫌っていたり、否定したり、卑しい存在だと思い込んでいるからです。その自己嫌悪、自己否定、自尊心の低さは、毒親自身が親に愛してもらえなかったのが原因です。

自分を愛せない人は他人も愛せないし、他人を愛せない人が結婚したり親になったりするのは間違っています。愛を知らないのは本人の所為では無いものの、間違いと不幸の連鎖を断ち切るまでは、異性に愛される資格はありません。

でも、毒親は自分の都合で親になり、間違いと不幸を連鎖させてしまいました。何世代か前までは、誰でも結婚するのが当たり前だったという背景はありますが、それでも連鎖させた責任から逃れる事は出来ません。

 

言い換えると、毒親は親としての責任を取ろうとしなかったからこそ、自尊心が低いままで人生を終える事になったのです。もし真剣に我が子と向き合い、ダメなりに愛そうとしていたら、もっとマシな人間になっています。

毒親になる人間は総じて無責任ですし、逆を言うと責任感のある人は毒親にはなりません。何故なら、人間は責任を背負う事で成長し、自尊心を高めていくからです。責任感とは、筋トレで言う負荷に相当するものなのです。

無責任な人生は楽ですが、その楽には先が無く、生の実感もありません。退屈な日々に飽き飽きしているからこそ、酒、タバコ、性行為、ギャンブルなどの強い刺激に依存したり、スリルを味わう為に犯罪に走ったりするのです。

 

この手の人間が、他人を否定する事で自分の優位性を確認したり、正当化する事を憶えると、イジメや差別を最高の娯楽と捉えるようになります。程度の差はありますが、毒親は我が子をイジメたり、差別する事で快感を得ている最低最悪の変態です。

そして毒親持ちは、その変態に依存しないと生きられず、幼い頃から散々屈辱を味わわされてきた子供達です。最も大切な存在である筈の親からイジメられ、自尊心が育つ前に尊厳を踏みにじられた子供が、普通に成長出来る訳がありません。

暴力を振るう親なら子供も「コイツはダメだ」と分かりますが、精神的な虐待は理解するまでに時間がかかるので、素直で思慮深い子供ほど「自分が悪い」と考えてしまいます。

 

他人に向けられるべき怒りが自分自身に向かうと、過食や拒食、リストカット、セルフ・ネグレクトなどの自傷行為が始まります。人間の心理とは不思議なもので、癒し難い苦痛があると、別の苦痛で上書きしようとするのです。

また、日本では自虐的な笑いを謙虚さの表れと考える傾向がありますが、笑いの本質は攻撃的なものです。他人をおちょくって優越感を味わったり、ギリギリで許される冗談が生む緊張感と安堵の落差で、人は笑うのです。

そんなものを自分自身に向けるのが上手くなっても仕方が無いですし、この世に媚び諂(へつら)ってでも笑いを取らなければならない場所など在ってはなりません。自尊心を取り戻したいなら、まず笑いの毒性に気づく必要があるのです。

 

人間、本当に気分が良い時はニッコリと微笑むものですし、笑いなどその程度で十分です。大爆笑を求めて止まない人や、金を払ってでも笑わせてもらいたがる人は、心の奥底に深刻なストレスを溜め込んでいると考えても良いくらいです。

体を張って笑わせる芸人を目指すのでない限り、他人を笑わせてあげる必要はありません。もしウケを狙う自分が居ると思ったら、何故そうしたいと思うのかと自問自答してください。恐らく「不安だから」という答えが返ってくる筈です。

好かれているとか、愛されていると思えなくて不安だから、ウケを狙って安心したいんです。でも、笑われる事によって得られる人気などたかが知れていますし、本当の人気者は社会的な強者であり、常に笑わせる側に立っています。

 

俗に「天国に笑いは無く、地獄には笑いが溢れている」と言うように、心が洗われるような場所ではみんなが静かに微笑み、荒れた場所では罵倒と嘲笑が飛び交っています。美しい自然の中や、荘厳な建物の中で、馬鹿笑いをする者は居ないのです。

地獄のような場所に居たら、何時まで経っても、何をやっても、毒親持ちの自尊心は回復しません。機能不全の家は地獄の家であり、そこで笑うのは毒親だけです。それならば多少貧乏でも、親子が微笑み合う家の方が天国に近いと言えます。

地獄のような場所を避けて、天国に近い場所に移るだけで、少しずつ自尊心は回復していきます。本来は誰もがオンリーワンの尊い存在なのですから、そうなるのが当たり前です。

 

そして微笑みに満ちた平和な場所で、自分の行動に責任を持って生きていけば、誰もが本来の輝きを取り戻します。自尊心や自己肯定感を高めるメソッドなどは、一切必要ありません。何故なら、それは社会に迎合する手段に他ならないからです。